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スイカづくりの名人だった、伝説のボイラーマン 木場一夫

木場一夫

木場一夫
1920(大正9)年生まれ。
横須賀の海軍工機学校卒。戦後濵田の缶焚き担当。2018年没。

1920(大正9)年市来生まれの木場一男は、ボイラーマンを育てる横須賀の海軍工機学校を出ると、戦艦や駆逐艦に10年乗務。焼酎の蒸留にはボイラーが欠かせないことから、四代目濵田光彦に請われて35歳で入社した。

「光彦社長の頃から32年間働くうち、生産量が大きくなるにつれてボイラーを5度替えました。燃料もその年のイモの量と出荷量に合わせて確保しないといけません。蒸気が足らなくなれば蒸留できなくなるので、ボイラーの機能熱量をいつも高めておく。10月1日から12月31日の大晦日まで、朝4時半から晩の11時半まで一人で働く。寝るのは4時間だけ。交代要員がいないまま3カ月。それがイモの収穫が終わるまで続きました」

じつは農家育ちの木場は、スイカづくりの名人でもあった。探究心旺盛な彼のスイカは大阪中央市場に出荷すると、夏の3カ月勝負で200万円の身入りになった。
あるとき光彦社長に、スイカと濵田酒造と、どっちが良いか問われ、工場に3カ月来てもなかなか割に合わない旨を伝えた。すると新しくでんぷんづくりを始めるので通年勤務で手伝ってくれないかと相談された。

「どうしたもんじゃろかと非常に迷った。幸いなことに農作業に使う人件費が当時は一日一人1000円。大阪に出せばスイカ1個が1000円して、人件費と一緒です。それなら畑で5人頼めばスイカを5個余計につくればいいかと考えました。そうして経営をやりくりしながら、ボイラーマンも通年やりましょうということになった」

強運な海軍帰りは戦後の高度成長期、焼酎造りとスイカづくりに折り合いをつけ晴れやかに大活躍した。

男勝りでしっかり者のセールスウーマン 久保千鶴

久保千鶴

久保千鶴
1926(大正15)年生まれ。
出征で男手のない配達現場を農家での忍耐力で支える。

四代目社長の光彦は、久保千鶴に向かって、よくこう叫んだ。「鶴子、欣ちゃんを連れて行け。そして教えこんでやれ」
鶴子は久保の渾名。終戦直後、焼酎が一升450円で売れた頃、当時は一般人に直に販売。「『20、30本売って来い。おまんさが行けば、評判が良かとよ』と、光彦社長から発破をかけられました。私がセールス担当。一番売れたのは、2合5勺の量り売り。こぼれないように升から漏斗を使って、入れてあげましたね」

久保はもともとは工場勤務。終戦の翌年の1946(昭和21)年、戦争に駆り出されて男子従業員が不足したため、濵田酒造からの要請で工場に勤め始めた。「家が百姓だったので、私は男勝りでとても力が強く、米一俵(60キロ)を肩で担ぐほど元気だし、仕事は何でもこなせたから、重宝がられたんです。女の人はたくさんお給料をもらえない時代に、濵田酒造はどっさりくれたので、15年も在籍しました」

濵田酒造を辞めた後、16歳離れた弟と一緒に、自分でプロパンガス販売会社を立ち上げ、一軒一軒、セールスして繁盛した。力仕事を厭わない久保だったが、記憶力も抜群に良い。濵田家のこともよく記憶しているが、ある時から家風、空気が変わったと感じた。「1950(昭和26)年に、秀子さん(光彦の妻)が嫁いでからです。家で使う食器もがらりと変わって綺麗になったし、料理を作って皆にふるまいました。秀子さんは〝きもきれ”。肝が大きくて、ケチじゃない人。市来では、きもきれじゃないと愛されないんです」表舞台には出てこないが、女性たちがひっそり紡いだ濵田酒造の歴史もあるのだ。

「唎酒」の技術を社員に伝授する 山下勇夫

山下勇夫

山下勇夫
1937(昭和12)年生まれ。
営業課長として県内の業務店・小売店の拡販を担う。

1937(昭和12)年生まれの山下勇夫は、1983(昭和58)年にそれまで勤務していた同業他社から濵田酒造に中途入社した。
組織がしっかりした酒造メーカーで長年営業を経験してきた山下は、そんな濵田酒造にとっては渡りに舟とも言うべき貴重な人材だったのだろう。入社早々、濵田酒造が初めて立ち上げた営業部の課長に抜擢された山下は、それまでの経験とセンスを生かして、製造と営業の現場が常に情報を共有し、一心同体になるためのパイプ役として大きな足跡を残した。

なかでも大きな功績が、山下が現場に新たに採り入れた「唎酒」である。唎酒とは、ソムリエが行うワインのテイスティングのように、焼酎の熟成具合を舌で確かめる技術だ。毎朝、出社すると傍らにバケツと水を用意し、社員一人一人が味見する。味見といっても飲むわけではなく、ひと口含んでは吐き出し、口を水でゆすぐ。「口に含んだとき、丸くパーッと広がって、ころがるような味でないといけません。味がピリピリして、これはまだ粗いとか、こちらはまろやかだとか言いながら、タンクごとの味を次々に舌で調べていくんです」

貯蔵タンクごとの熟成具合や味の違いを確かめ、主力ブランドの味がばらつかないように、その調整をブランドごとに行ったうえで出荷する。お得意さまとの心のこもったコミュニケーションを大事にしなければならない。営業部門が充実すれば、工場もおのずと充実し、優れた品質の商品が生まれる—それが現役時代の山下の口癖で、社員に対する営業の心得の伝授にも余念がなかった。

製造現場一筋で「自立自興」を支える 竹迫昭人

竹迫昭人

竹迫昭人
1956(昭和31)年生まれ。
新工場の設備充実と基本設計に手腕発揮。

製造担当一筋の竹迫昭人が入社したのは、1982(昭和57)年。当時、濵田酒造では原酒を大手メーカーにタンクごと売る「桶売り」を積極的に行っていた。これによって利益は伸びたが、取引を打ち切られたときのダメージは大きかった。

以来、濵田酒造は「自立自興」を掲げ、自社販売に切り替えていくことになる。従来、濵田酒造では焼酎を仕込む期間だけ外部から杜氏を招いていたが、杜氏制の廃止に踏み切った。「今思えば大変な英断でしたが、社員やOBの方々に対しても『古い考えを捨て、新しい時代に変わる』ことを明示したのです」と竹迫は語る。

傳藏院壱の蔵の工場建設には中心になって取り組んだが、2000(平成12)年に完成すると「大きすぎる」と周りから随分お叱りを受けたそうだ。だが、その後、ここから生まれた「海童」や「海童祝の赤」が本格焼酎ブームに乗って全国に広まり、5年間に生産量は3倍に増加。この間、工場を増築せずに済んだのは、初めから大きな容れ物を用意した竹迫の先見の明のおかげと言えよう。

竹迫は自社が主導して全体をコーディネートすることにこだわる。「うちは丸投げはしない。自分たちで配置や流れを考えたうえで、機械もそれぞれ別々に発注します」広い視野で会社全体に目配りをする竹迫は、若い人材の育成にも力を注ぐ。「濵田酒造にはいろいろなタイプの蔵があり、それぞれに独自の製法があるので、勉強したり考えたりするチャンスはたくさんあるはずです」

水の博士が挑む焼酎の逸品開発 樋之口大作

樋之口大作

樋之口大作
1977(昭和52)年生まれ。
リキュールを軸とするレシピ開発や工程改善に奮闘。

鹿児島大学の大学院時代、微生物を用いた水処理の研究に携わってきた樋之口大作。醸造について本格的に学んだのは入社後、研究開発室に配属されてからになる。前任の研究開発室長の原健二郎から、発酵温度や貯蔵環境の違いによって、焼酎の香味や取れ高がどう変わってくるかを、つぶさに教わった。奥が深くて面白い半面、底なしの難しさを感じた。

現在、取り組んでいるのは、果実を使った、鹿児島を象徴する「和」のリキュール造り。「極端な話、柚子の香料を使えば、ある程度の品質のものは造れます。でも、ベースとなる焼酎や原料のおいしさをより表現したいという思いで、配合や果汁などの選択にはこだわりました」

商品開発研究室は、研究員7名のうち2名が女性で、彼女たちの役割はことのほか大きい。男性の気づきにくいところから着想を得るなど、樋之口もその感性の妙に驚かされることが多い。商品開発は、通常、企画や営業部隊が主導し、商品開発研究室がそれに応えていく。その方が、市場のニーズを踏まえているため、商品化しやすいのだ。

樋之口が大切にするのは、自分で考えて商品化したものが、お客さまを笑顔にしたり、つかの間の幸福感をもたらしたりすることだ。そうした心境に至ったのは、「濵田フィロソフィ」の手帳編纂に携わって以降のことである。「毎月2回ほど仕事と人生について、1年半にわたって深く意見を交わし勉強する中で、自分たちが人に喜ばれる商品をつくる意義が、ストンと腑に落ちました」

現代によみがえった女性杜氏 野元奈月

野元奈月

野元奈月
1979(昭和54)年生まれ。
カブト釡式蒸留器による穀類とイモの古式焼酎造りを担う。

金山蔵は江戸期に採掘が始まった、串木野鉱山の地下坑洞奥にある。年間を通じて19℃に保たれた空間が広がり、夏場はひんやりとして気持ちがよい。かつて芋焼酎は薩摩おごじょが働き者の夫のために、自家用酒として家でこしらえていた時代があった。そうした昔ながらの手造り焼酎の足跡を一から見直そうと、タイムスリップするかのごとく2005(平成17)年に金山蔵は開設された。

一回の仕込みで製成される量はわずか60リットルという小さな蔵で、秋から年末まで芋焼酎を手がけ、1月から9月まで穀類焼酎を仕込む。「二十歳の頃から鹿児島県外でずっと製造の仕事に就き、地元にいざ戻ろうと思った時、焼酎蔵の多さに初めて気づいたんです。最初から金山蔵の杜氏を志望したのは、自分の手で一から焼酎を造れることに魅力を感じたからです」

手始めの仕事は麴づくり。米を洗って浸漬を施し、蒸したら放熱、そこへ種麴菌をしっかり食いかせる。2日がかりで製麹を終えて3日目には出麴だ。黄金麴という金山蔵独自の菌は、じつは少々気難しい。そんな麴と真剣に向き合い、蒸留するまでおよそ15日間。機嫌をとったりなだめたりと、コンパクトな蔵の中に焼酎造りの原点がたくさん詰まっている。

「蒸留するまでは本当に気が抜けません。やはり出来栄えにいくらか違いはありますから。今は3日に一度の割で仕込みます。自分の思い通りにならない点は、子育てに近い感覚で難しいですね」と笑う。女性が家庭で夫や家族を想い、時には逞しく、時に優しく醸した昔ながらの焼酎を女性杜氏はこれからも伝え続ける。

●濵田フィロソフィとは、濵田酒造の経営哲学のこと
●2019年2月現在