150 years of hamada : ai

【 愛 】
継承への
道しるべ

1868〜1950 【明治元年〜昭和25年】家業の時代

油屋・酒屋兼業ののどかな生活

幕末から「(ヤマハ)」の屋号で精油屋と古着商を営んでいた濵田が初めて酒造りに挑んだのは1868年。創業当初の記録は乏しいのですが、しばらくは油屋の方が本業をなす時代が続きました。四代目光彦の姉・和子(大正9年生まれ)は、祖父で二代目の宇吉について、このように記憶していました。
「大きな甕(かめ)を店内に三つ並べ、高級な長崎五島産の椿油は別な古伊万里の油壺に入れて、小さな柄杓で量り売りをしていた。明治から大正の市来湊には沖縄の船が定期的にやって来て、琉球系の人々が暮らす唐人町もあったので、入港のたびに竹籠がお札でいっぱいになるほど油がよく売れていた」

醸造を支えた杜氏たち

秋が近づくと、川内から濵田酒造の杜氏たち3、4名が必ずやって来ました。彼らは蔵の2階に数カ月住み込む醸造のプロであり、焼酎の出来を左右する水先案内人でした。繁忙期には昼の水仕事に加え、麹を室で手入れする繊細な作業に夜中も励みます。釜屋で火もちのよい樫の薪を山ほど蓄え、ボイラーにくべながら蒸留加減に神経を尖らすのも彼らの役目。焼酎は年のうち数カ月しか造らないため、残る8、9カ月の間に手順を忘れてしまうことから定着した杜氏制度です。ツブロ(蒸留器)の冷却に使われる水はたちまち湯となり、それを求める隣近所から喜ばれました。とりわけ杜氏頭の三治どんは、戦前から濵田に出入りする大ベテラン。子供からも愛される人気者でした。
季節労働の仕込みのさなかの楽しみは夕飯でした。麦飯に味噌汁、おかずはイワシの刺身にイワシの味噌煮と漬物。それに労いの「だいやめ※1」に、徳利一本の焼酎がつきました。台所の火鉢には釜屋から運んだおき火が常にいけてあり、まかないの女中さん二人が夜食を整えます。蔵と住まいと近所が混然と繋がる濵田家では、このように誰彼なく手料理でもてなすのが昔からの習わしになっていました。

※1 晩酌して疲れを癒すという意味の鹿児島の方言

敗戦の日のふるまい酒

沖縄を占領したアメリカ軍は昭和20年6月、鹿児島市内に無差別大空襲を行い、翌7月末に艦載機で初めて市来を襲います。続く8月9日は湊町市街が焼け野原となり、25名の命が奪われました。焼け跡の煙がくすぶる中、シラス台地の壁に囲われた濵田酒造は奇跡的に無傷でした。
戦時中、統制品扱いだった焼酎はすべて海軍に供出していたため、庶民は長いこと味わっていません。8月15日の夕方近く、通信網の途切れた役場に敗戦の報が届くと、人影の消えた町は悲しみの底に沈みました。三代目・濵田傅一(50歳)は、こんな時こそふるまい酒だと決断。一滴残さず町民に配ろうと心意気を示すと、年寄りたちが近隣の疎開先から戻り、17日朝には店の前で目を輝かせて長い列をなしました。

(敬称略)

【写真】家業時代を支えた主力商品「薩摩富士」のラベル。昭和7年販売開始。