【 敬 】
先人の
故知に学ぶ
焼酎はどこから来たか?
日本の最南端に位置する薩摩(鹿児島県)は古くから海外との交易が盛んで、漂着や難破を装った密貿易船が暗躍していました。「南蛮酒」と呼ばれる蒸留酒※1が日本に伝わったのは、大航海時代が幕を開けた15世紀、室町時代半ばのこと。ポルトガルやスペインとの間で行われた南蛮貿易によって、蒸留酒をはじめ多くの異文化が島国日本にもたらされました。
日本に焼酎が伝わった道筋には諸説ありますが、九州に伝わったツブロ式蒸留器の源流が中国福建省にあることから、薩摩から琉球、中国へと至る「海の道」を通って、日本に伝来したとされています。米の収量に恵まれず台風に泣かされてきた薩摩で、清酒よりも焼酎が受容されたのは、ごく自然の流れだったと言えるでしょう。
※1 醸造酒を蒸留してつくった酒(焼酎、ウィスキー、ブランデー、ウォッカなど)のこと。スピリッツとも呼ばれる。
【写真】島津家25代当主・重豪(しげひで)が家臣に命じてつくらせた世界地図「円球万国地海全図」
所蔵 = 鹿児島県歴史資料センター黎明館
オラーカと焼酎、最古の記録
15世紀に南九州に伝播したとされる蒸留酒。16世紀にはその蒸留酒をつくり、折々に楽しむまでに定着していたといいます。それを裏付ける最古の記録が、ポルトガルの貿易商ジョルジェ・アルヴァレスが1546年に書いた「日本報告」です。薩摩の山川港に半年間滞在したアルヴァレスは、後からやって来るフランシスコ・ザビエルのために日本人の風俗・生活を詳細にレポートしました。飲酒についても触れ、“この地には多数の居酒屋があり、日本人は米からつくるオラーカ※2を飲んでいる” と記しています。
※2 ポルトガル語で蒸留酒のこと
【写真】「南蛮屏風」(部分)16世紀末期~17世紀初期。
所蔵 = 神戸市立美術館
種子油屋から焼酎蔵元へ。
「濵田酒造」の第一歩。
平安時代から交通の要として栄えてきた市来宿。東シナ海に面した市来湊の入江は今よりずっと水深が深く、漁船ばかりでなく大坂や琉球から来た商用の帆船が停泊して小港も栄えました。少し離れた串木野金山は、領内の山ヶ野金山や大口金山と並ぶ産金量を誇ったといいます。当地で早くから地場産の菜種油を製油する種子油屋として、濵田酒造の前身である濵田商店は財を成しました。
その蓄財をもとに、主人・濵田伝兵衛は明治元年から本格的な酒造に乗り出し、のちの濵田酒造として「市来焼酎」の仲間入りを果たします。かつて交易によって多様な文化がもたらされた市来湊一帯では、今日まで焼酎蔵元6軒が共存共生しています。
【写真】大坂の豪商・高木善助が著した「西陲画帖」。1855(嘉永7)年。
所蔵 = 鹿児島県立図書館
「だいやめ」と「チンと飲み」
薩摩藩家来のほぼ9割を占めた郷士は、日々、とても忙しく過ごしていました。田畑を耕すほかに、養豚や養鶏、養蚕まで営み、薪割りから魚捕りまで自給自足でこなさなければならなかったからです。大仕事の田植えを5月に終えて麦刈りや茶摘みが済むと、「すったい、だれもしたい」(くたびれた!)から、ちっと一杯「だいやめ」となります。
「だいやめ」とは、鹿児島弁で「疲れ休め」のこと。「晩酌で疲労回復しましょう」という農民たちの合言葉でした。宴席に慣れ親しむご婦人方は、太鼓を打ち鳴らし三味線を奏でては、そのつど、焼酎を「チンと」(ちびちびと)飲みます。酒を飲んでも「ずんだれんように」(だらしなくならないように)と、緩急巧みに気合いを入れる薩摩女の飲み方を「チンと飲み」と称したそうです。
【写真】疲れ休めと称した小宴会の一杯で、明日への英気を養う。徳之島の民俗や衣食住、歴史などをまとめた「徳之島事情」より。1895(明治28)年。
所蔵 = 国立国会図書館
島津斉彬公の遺産
~芋焼酎と薩摩切子~
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬公。西洋列強の日本侵略を危惧した斉彬は、富国強兵を図るために産業と軍事を絡めて科学分野の劣勢を挽回しようとしました。日本最初の洋式工場群「集成館」は、それを具現化するいわばミニ工業団地であり、そこでは洋式銃の量産とその起爆薬の雷汞(らいこう)づくりなどが推し進められていました。
雷汞をつくるためには、水銀を硝酸で溶かしてエチルアルコールに反応させなければなりません。当初は米焼酎のアルコールを転用するつもりでしたが、米だとコストが膨らみ、民の食生活に影響を及ぼします。そこで斉彬は芋焼酎に目を付け、サツマイモからきわめて純度の高いアルコールが得られる蒸留技術を開発。結果的にこの技術革新が、臭みのない芋焼酎をつくり出す基礎力となりました。さらに、劇薬を保管する耐酸性の薬品用ガラス瓶をつくるうち、工芸品としての薩摩切子を創案するに至ったのです。
【写真】薩摩藩、城下北部にあった滝之上(たきのかみ)火薬製造所。「滝之上火薬製造所図」武雄鍋島家資料「薩州見取絵図」より。
所蔵 = 武雄市図書館・歴史資料館
単式蒸留から生まれる
「本格焼酎」
アルコールと水の沸点の違いを応用して、醪(もろみ)からアルコール分だけを分離して取り出すのが「蒸留」の仕組みです。
醪を常圧で加熱して80℃を超すとアルコールが気化し始め、それを外側に集めて冷やすと液体に戻り、香りと風味の立つ個性的な「乙類焼酎」に生まれ変わります。さらに蒸留機の機密性を高めて真空に近い状態で減圧蒸留を行うと、ボイラーで加熱された醪は50℃ぐらいで沸騰を始め、まろやかで癖のない味の焼酎となります。
この二通りの単式蒸留から生まれる乙類焼酎を「本格焼酎」と呼びます。あえて「本格」と謳うのは、自然の原料と麹、酵母を使い、昔ながらの製法による伝統的な造りを重んじているからである。
蒸留機の進化と「甲類」「乙類」
巨大なヤカンに似た単式蒸留(ポットスチル)が、ウィスキーの本場・英国で連続式蒸留(パテントスチル)に改良されたのは19世紀初めのこと。これは醪塔と精留塔の2塔式で、醪塔に高熱の水蒸気を吹き込んで揮発成分だけを分離し、それを精留塔で冷ましてアルコール液に戻す仕組みです。この方式だと蒸留が途切れなくでき、度数95度以上の蒸留酒を得ることができます。
高純度エチルアルコールの工業的な大量生産がかなうと、透明で臭いのない廉価な新式焼酎が「甲類」の名称で市場に出回るようになりました。
95度以上のアルコールを水で35度以下に薄めた甲類焼酎はやがて空前のブームを迎え、戦後、従来の単式蒸留による乙類焼酎は人気に陰りを見せました。しかし、昭和46年から「本格焼酎」と表記されるようになったことで、地位回復を果たします。
ちなみに「甲類(新式)」「乙類(旧式)」という分類は、酒税法に基づいたものです。
【写真】蒸留の際に用いたボイラー。大正時代後期から昭和30 年代初めに使われていたもので、外炊き横型煙管ボイラー。所蔵 = 濵田酒造
【写真】濾過器。蒸留した焼酎を濾過する道具。内部に金属製の網があり、そこに布を巻いて濾過する。所蔵 = 濵田酒造
【写真】台車付きの濾過器。所蔵 = 濵田酒造
コガネセンガンと坂井健吉
サツマイモの品種改良は、常に国策と表裏一体の関係にありました。日中戦争を前に石油の輸入制限を受けた日本は、昭和12年にアルコール専売法を制定。航空機燃料を確保するため、酒精(アルコール)原料用のサツマイモの増産と品種改良が重要国策となりました。この研究を牽引したのが、九州農業試験場の坂井健吉(1925~)です。
サツマイモは近親交配を重ねると生命力が弱くなります。そこで世界中から60余種の品種を貰い受け、遺伝的特性を解明して過酷な交配と選別を繰り返しました。
そうして誕生したのが、昭和41年に農林31号として登録されたコガネセンガンです。
高でんぷん、高収量、優れた食味と3拍子揃った超優良品種のコガネセンガンは急速に普及。でんぷん含有率が高いほどアルコールの生産効率も高くなるため、今では芋焼酎用品種の95%を占めています。