【 愛 】
継承への道しるべ
1951〜2018 【昭和26年〜平成30年】本格焼酎メーカーへ
濵田酒造を語る
【写真】大正末の濵田家。後列左の紋付姿が31歳の三代目傳一。
前列中央が二代目宇吉と妻サヤ、間にいる子が四代目光彦で宇吉左は姉の和子、その左隣は次男欣二を抱える傳一の妻ミキ。
廃藩置県後、多くの下級武士が失業に苦しむ姿を見た創業者伝兵衛は、幼い傳一の頭をよく撫でながら生前「傳いっ坊、こん家を潰したらいかんよ」と声をかけていたという。
四代目社長・濵田光彦は、
濵田酒造よりも、郷土や国の発展を考えた。
家業から企業へと舵を切ったのは、四代目社長の濵田光彦、私の父でした。大学院まで進んだ光彦が市来に戻って家業を継いだのは、長男としての使命感もあったでしょうが、もっと大きいのは戦争体験だったと思われます。第七高等学校から士官学校へ進み、朝鮮半島に派兵された光彦にとって、自分より優秀な学友が学徒動員で非業の死を遂げたのは、無念の極みでした。「何の御加護か、自分は生き残って帰ってこられた。焦土と化した日本の復興のために力を尽くさないと、死んだ仲間たちに申し訳が立たない」という思いが、光彦の戦後の出発点でした。
また、西郷隆盛南洲翁に心酔する光彦の人生は、南洲哲学の「世の為、人の為」「己を捨てる」という思想に貫かれていました。1951(昭和26)年に濵田酒造を法人化した時、光彦は社是に南洲翁の座右の銘「敬天愛人」を掲げ、小売店やガソリンスタンドなどを兼業して、地域の人たちに雇用機会を創出。
さらに、事業だけでは地域貢献ができないと考え、県議会議員に立候補して当選し、2期8年の任期を務めました。光彦にとっては、郷土鹿児島の発展や日本の行く末をどうするかという問題に比べると、濵田酒造の経営は二の次でした。政治家としても「井戸塀議員※2」でいいと、腹を括っていたのです。
後年、私や弟たちは、濵田酒造が絶体絶命のピンチの時に、光彦が築いた人間関係に助けられ、窮地を免れるという経験を何度かします。「濵田光彦の子息ならば」と、私たちを信用し、手を差し伸べてくれたのです。
※2 私財を投げ打って公に尽くす政治家
【写真】復員後に濵田光彦は憲法学者を目指し京都大学大学院まで進むも昭和26年に家業を継ぐ。
【写真】光彦は郷中教育として市来猶興舎による妙円寺詣りを復活。
【写真】県議時代の光彦。地域貢献のために多忙を極めた。
「己を限定しろ」との光彦の叱責から、
無知で不遜な自分に気づいた。
1972(昭和47)年に大手焼酎メーカーと資本提携しましたが、1年半後に解消。濵田には多額の負債が発生しました。倒産こそ免れたものの、濵田酒造の経営は底を打っていました。
そんな時、光彦から、東京の大学を辞めて、濵田酒造を継ぐように言われたのです。1975(昭和50)年8月に代表取締役専務に就任した私に託されたのは「専守防衛」でした。以後、1年間、私は営業から生産、総務経理まで、何でもやりました。その結果、売上高は増加したものの、経常利益は大赤字をつくってしまったのです。
【写真】昭和30年代まで従業員と家族が交わる恒例の串木野羽島での磯遊び。
「己を限定しろ」と、光彦から厳しく叱責されたのはその時です。最初は意味がよくわかりませんでしたが、やがて、何も知らない自分に気づきました。本格焼酎のことを知らない。業界のことも知らない。甲類乙類も知らない。すべてが本末転倒でした。ちょうどその頃、県知事の鎌田要人さんが「自立自興」ということをおっしゃって、光彦は「敬天愛人」と並んで、この言葉を濵田酒造の社是に据えました。「己を限定しろ」と「自立自興」は、以後、私の行動の指針となります。
それから1年間、私は猛勉強をしました。酒税法や酒造業界に始まって、薩摩本格焼酎とは何なのか、そして本格焼酎を生んだ歴史や文化はどういうものなのか。本も読んだし、いろいろな人に会って話を聞きました。その頃の私は問題意識の塊だから、何を聞いても学べるんです。
【写真】濵田酒造に入社間もない頃の雄一郎。
降ってわいた焼酎ブームで、
メーカーは設備不足。
未納税酒を売るチャンス到来。
1977(昭和52)年は、第一次焼酎ブームと言われる波が押し寄せていました。芋焼酎の「白波」、そば焼酎「雲海」、大分の麦焼酎「いいちこ」などが急成長を遂げ、今まで地産地消だった焼酎の広域展開が始まったのです。
しかし、急成長はしたものの、各メーカーの製造が追いつきません。一方で、大手メーカーと提携した際に増設していた濵田は設備過剰。そこで私は光彦の人脈などを頼りながら、九州で急成長している焼酎メーカーに「桶売り」をさせてくれと営業して回ったのです。簡単に言うと下請けです。メーカー間では、酒税を払わない酒の取引が認められていて、未納税酒取引と呼ばれています。メーカーが余らせた酒を、業者間で融通し合う時の制度です。
渡りに船とばかりに、注文をいただきました。「うちは運転資金が乏しい」と伝えると、原材料ごと提供してくれる会社もありました。イモだけでなく、麦や蕎麦も受注したため、工場の稼働率は上がり、資金繰りも楽になりました。社員の安定雇用もできるようになりました。芋焼酎の場合、9月から12月の4カ月間、農閑期を利用して外部の杜氏が仕込みに来るのですが、麦や蕎麦を手掛けたことで、自社に技術と経験の蓄積ができ、社内杜氏を育成できるようにもなりました。